サニーブライアンの逃走記録

主に『競馬』に関する事の記録や、自分の思考ルーツとかについて書いていこうかと思います。

「空気を読む」と、「いじめ」志向のつながりについて考える。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190619-00000001-withnews-soci

 

この記事を読んで、その記事へのヤフコメ等を見て、「いじめ」という行為に対するものの考え方や、その行為がどのような経緯で生まれるのか、少し考えてみたくなったので書いてみる。

 

とはいえ、『いじめ』に主眼を置いた考察ではなく、『空気を読む』という言動から『いじめ』的志向を垣間見る事がよくあるので、そちら側からアプローチをしてみたい。

 

「空気を読む」を考える

「空気を読む」という行為は一見すると「能動的」に他者を思いやる行為のように思われがちだが、それを他者にも暗に求めるような思考を抱いたり、露骨に「空気読めよ」と相手を詰るような言動は、能動的に相手を思いやり「空気を読んだ」行為からはかけ離れていると思うのは、私だけであろうか。

 

もっとシンプルに「『空気を読む』相手は誰なんだろう?」と思った事はありませんか?

 

対象は一人?

それとも、複数人?

 

「空気読めよ」と発言したり心の内に秘めたりする人は、「誰の志向に沿え」と思っているのでしょうかね?

 

それって、もっと解りやすく言えば『忖度する』という事と、ほぼ同じですよね。

 

 

 

誰に?

 

 

 

これが、「いじめ志向」の根源となることの一つでもあるんじゃないの?

 

「空気を読めない人」や「空気を読まない人」の集団における末路はどうなりますか?

排除されますよね。

 

じゃあ、「空気を読む」って何を目的とした行為なの?

 

空気を読まなきゃその集団から排除される、でも、明文化されるわけでもなければ、明言化されるわけでもない、ただただ暗に「解れよ」と要求されるんだよね。

 

それを暗に要求された相手は、それをどうやって知るの?

 

昔から連綿と続くオーソドックスな『いじめ』の手法として、「無視」や「仲間はずれ」という行為があります。

それを「空気を読んだ同盟」みたく、公然と仲間内から気に入らない人間を排除する為の『ツール』として、「空気を読む」という言葉が利用されているように、時折思うのですよ。

踏み絵』も、それに近いですよね。

自分に配慮しようとしない、自分の意向や趣向に沿わない人間は排除する。それも、自分の意向や趣向を明言するわけでもなければ明文化もせずにね。

そうして「他者に空気を読ませようとする人間」は、自分が好き放題に人間を選ぶという行為をしているのに他ならないという事こそ、周りの人間は気付かなければならないのです。

さらに性質(たち)が悪い事に、「○○さんの想いを察して空気を読んだよ。」みたいに『空気を読む』対象を他者へ置き換える事で、自分が主導して自分の気に入らない他者を排除しようとしている事実をも、ぼかせるんだよね。

そういう集団の中に居る限り、自分が死ぬまで永遠にその仲間内の誰かが一人二人と排除されてゆく現実を見続けなければならなくなるのですよ。そうした社会が、現在の人間社会におけるコミュニティーを保つ一角(いっかく)ともなっているのです。まるで、排他社会のようですね。そのように、主催者(≒力のある者)の意にそぐわなければ排除される人間関係って、人間として生きていて将来性を感じますか?

健全と言えますか?

「排除される人間がいる」というコミュニティーは、近い将来「自分も排除される側になる」という事でもあるのですよ。「自分が排除される側に立つ事はない」だなんてなんの根拠もない話であり、主催者(=権力者)とどんなに最高に良好な関係を築けていても人間は簡単に心変わりをする生き物ですから、なんて事のない理由で簡単に人を排除し、裏切ります。

国や自治体のような巨大化したコミュニティーではよくある事でもありますが、大抵は『ルールや法律』といった形で「明文化」されている事が当たり前なほど殆どです。

ココで問題にしているのは、「空気を読めよ」といった言葉や行為を代表するように、「明言化・明文化をせずに他者を排除するコミュニティーこそが、今や社会問題化した『いじめ』を増長する行為」の一つなのだという事です。

そのコミュニティーの仲間に対してなんの「敬意」も払っていない、確たる証拠じゃないですか。相手の話も聞かずに、相手に何も伝えずに、ただ一方的に「空気を読め」だなんていう行為は。

でも、残念ながら「空気を読む」という行為は、現代社会の中に受け入れられていて、マジョリティーとして捉えられているようにも感じます。ソコで問題なのは、その行為の持つ本質を自分の頭で考えてみようともせず、何の疑問も抱かずに「社会的に流行りだから」とか「だってみんなやっているじゃん」みたいな『思考停止』をし、無条件にその流れに乗る事です。

なんの主観も感情も持たずに、冒頭に載せたURLのコメントを見て下さい。

寄って集って、自分の主義と会わない人間を叩いているコメントの、なんと多い事か。

相手がどういう意図や感情も持って主張しているかだなんて、完全に置き去りにされています。

あるのは、自分に合うか合わないか、自分が好きか嫌いか、そんななんの建設性もなにも感じられない薄っぺらいコメントやレスばかりが、強文で目につきます。

「 自分の主張と合わなければ黙っていればいい」のに、気に入らない相手を攻撃する。そうせずに済むように「いいねボタン」みたいなのがあるというのにね。

その場では仲間でもなんでもない見ず知らずの人間が対象となってはいますが、見ず知らずの人間に対して平気で攻撃をする人間は、仲間に対しても自分にとって気にいらない存在となれば、平気で手のひらを返して攻撃してきますよ。

 

本当に仲間や集団を大切に思うコミュニティーであるのならば、「空気を読む」という『排除』に直結する行為を変に美化して貴ぶのではなく、もっと他にやるべき事があるんじゃないですか?

 

シンプルに「自分がされて嫌な事を相手に伝えて知ってもらう」事こそが、本当の意味で相手を思いやる行為へとつながると、私は思うのです。

それを仲間内全員で共有しようとしてこそ、本当の結束力となり、本当の友人関係なりを築けると思いませんか。

 

「言わなくても察しろよ」という言動や思考に、彼方は人間的な優しさを感じますか?

 

本当の意味で「相手を知る」という行為は、相手に「自分という人間を知ってもらう」という行為と同義だと思うのです。

 

それならば、やらなければならない行動は、ただ一つですよね。

お互いに自分という人間がどういう人間かを伝え合う」だけという、実にシンプルで単純な事をするだけでいいのです。

その結果合わなかったら深い交遊関係を築いていかなければいいだけの話だし、相手にも選択権を持ってもらう事こそが、本当に相手の事を思いやる行為だと、私は思うのですよ。

だって、当たり前の事ですが、相手も一人の人間なのですからね。

その人間が、相手が「嫌だ」と明言しているのに、執拗に相手が嫌がる事をする行為って、何かに似ていません?

 

私はそれこそが『いじめ』なのだと思いますよ。

 

自分が嫌なら一方的に排除すればいいという排他的な思考、それこそが『いじめ』の原動力となります。

 

彼方の周りにも、自分は相手に何も言わずして相手に「察しろ」という空気や言動をしている友人はいませんか?

そんな友人を見て、何も言わずにただ黙っているのならば、その人は彼方にとってもその人にとっても「本当の友人」とは言えませんよ。現時点で、お互いにとってただの都合のいい人です。そんなの、相手(=人間)に対して失礼じゃありませんか?

彼方は自分がされて嫌な事を、黙って堪えて自分の内に秘め我慢したりはしていませんか?

それ(=言わない事)は美学でもなんでもありませんよ。

「空気を読む」だなんていう行為は、美学でもなんでもありません。愚学(←造語)なだけです。

 

何故なら、お互いに理解しあおうとする事もせず、どうして良好な人間関係を築いていけるというのですか。

 

「心地よい居場所に集まる関係」とソコに集う人間関係って一見すると良好に見えますが、その場所を共有しようとする働きかけをした結果により出来あがった場所は、非常に脆いです。何故なら、人が「心地よい」と感じる場所は、全員が同じくして共有しているモノではないのですから。誰か一人でも「嫌だ」と感じたら、その関係は揺らぎます。それを許さないのが『空気を読む』という働きかけなのですよ。その『空気を読む』為に神経を使い、すり減らし、自分が嫌だと感じる事も主張出来ずに我慢する。それを言ってしまったら「空気を読まない人間」というレッテルを張られてしまい、排除されてしまいますからね。誰もがみな我慢のひとつやふたつはしているし、人間として生きていくうえで多少の我慢をする事は当たり前でもありますが、どうしても我慢出来ない出来事を話す事も憚られる関係性って、人として『健全』な環境と言えますか?

それって、一見して居心地の良さそうに感じる空間に全部委ねてしまい、なにもしないからこそ出来上がった関係性とも言えるのですよ。率直に言ってしまえば「今の政治に対して大きな不満がないから、目に見えておかしな事が起きていても(自分へ直接的に被害が及ばないから)何も文句を言わない国民」みたいなもんです。コミュニティーの大小にかかわらず、こうした関係性の事項は簡単に起こりうるんですよ。

じゃあ、どうすればいいのか?

「なにもしない」の逆で、その場所にいる人たちの主張をちゃんと聞きあい主張しあい譲りあい尊重しあってこそ、強固な信頼関係と人間関係は築きあげていく事が出来ます。実に簡単な事なんです。

今まで学んできた文字や言葉は、ただの飾りですか?

相手に伝える為にある『ツール』を使わずして、何のために文字や言葉を学んだのですか?

そうして黙って堪えて我慢してきたモノがいつの日か爆発した時、その人間関係や友人関係はどうなるか、彼方は考えましたか?

 

そうなる前に、相手に伝える事の大切さを知って欲しいのです。

 

伝えた結果、相手が何度話しても自分の話を聞いてくれなかったのならば、それは相手が自分の事を一人の人間として興味・関心を抱いてくれなかったという事。

それは、相手に興味を持ってもらえなかった彼方が悪いのではありません。

それは、その人が「自分が興味・関心を持てない相手はどうでもいい」という思考の持ち主だったというだけです。

端的に言えば、『自分さえ良ければ他はどうでもいいという思考の持ち主だというだけの話ですね。

「いい」「悪い」の問題じゃないんです。

「正しい」「間違っている」という問題じゃないんです。

ただ単に、人間性=個性の違いです。

その人がそういう自分が好きであるのならば、それは他人が口出しする事じゃありませんからね。

 

ですが、それだけの理由で簡単に他者を排斥しようとする人間は、自分にとってその時・その場で都合の良い人間だけを大切にする人であるというのは、確定的に事実だと言わざるをえませんよね。

そうした個性の持ち主は、そうした個性を共有出来る人だけを集めて、そうしたコミュニティーを一緒に築き上げていくべきだと、私は強く思いますし、強く願います。カルト宗教みたいに。

要は、自分は自分とは違う価値観を持った他人の話であってもちゃんと耳を傾けるし、自分が嫌だと感じたら何も話を聞かずに一方的に他人を排斥したりするような人間とは違うと思う人は、どんなコミュニティーであってもちゃんと自分の主張をするべきであり、そのコミュニティーの事を本当に想うのであるのならば、正しいか間違っているかではなく、空気を読まなきゃだなんて考えず、自分の意見はちゃんと言うべきなのです。

そうした意見を聞いてくれないコミュニティーは、最早コミュニティーの体を成してはいませんので、それを見極める基準となります。

ただ、「自分の意見を聞き入れてくれない=自分の意見を通してくれない」という事ではありませんよ。話し合いにも応じず、一緒に妥協点を探そうともせず、一方的に排斥しようとする主催者がいるコミュニティーや、その主催者をたしなめようともせずに主催者の意向に同調するようなコミュニティーなのかどうかを、キチンと見極めるべきだと言いたいのです。

だからこそ、自分の意見はしっかりと言うべきなのです。特に、「自分がされたら絶対に嫌な事」は、必ず伝えるべきです。

何度も言って伝えているのに、その話を聞いていなかったりとか、自分は別に嫌じゃないし…みたいな返しをしてくる人間は、ロクな人間ではないのは解りますよね。ちゃんと自分の意見や気持ちを伝えてきている相手に対しての敬意が、まるで感じられないのですから。

 

そのうえで、そうした相手やコミュニティーに対して自分がどう動くかの選択肢の決定権は、自分にあります

当たり前ですが、相手が自分の思うとおりに動かないからといって、ブン殴ったりしてはいけませんよ。

 

そして、「排除」や「無視」も立派な『暴力』の一つですよ。

 

相手の肉体を傷つけるような「物理的な暴力」だけが『暴力』なのではありません。

寧ろ、先に挙げたような「精神的な暴力」の方が、目に見えない分よっぽど性質(たち)の悪いモノです。

 

人間というのは、生まれてきてから死ぬまで誰にも「迷惑」をかけてこなかった人など、一人も存在しません。どんな人であれ、必ず誰かに「迷惑」をかけながら生きてきているのです。

だとしたら、お互いに譲ったり譲り合ったりして生きていくのが人間として賢い生き方だと思うし、人間とはそうあるべきなのではないかと、私は一人の人間として生きてきてそう経験して学び、強く願うからこそ、こうして自分の意見を言い、伝えるという行動をとっているのです。

繰り返しますが、相手の事を理解する為に先ずは相手に自分という人間の事を伝える事こそが、本当に本当に相手を理解する事において重要で大切な事だと思うのですよ。

そのうえで、「話を聞く」という初歩中の初歩すらしない相手は、人間として決定的にダメである可能性が高いという事を、見極める事が出来るのですから。解りやすく言えば、自他の働きがあっても自分の行為を顧みる事が出来ない人間ですね。プライドの高い人に多いです、そういう人は。排泄物より価値がないのにね、そんなプライドなんて。

そういうのは、子供の頃に色々と経験して学んでおかなければならない事だとも思うのですが、今はそうした事も学ば(=べ)ずに大人になってしまった人も多いのですかね?

だとしたら…ですが、非常に悲しい事ですし、強く憂慮すべき事だと切に思います。

 

でも、そうした人間が多くいるからこそ、今もなお「空気を読む」だなんていう馬鹿げた行為を、その実体を知ろうとも考えようともせずに有り難がる人が居るのでしょうね。

 

情けない話です。

 

 

 

「空気を読む」に委ねる『楽さ』

では、何故「空気を読む」という行為が、ここまで社会に蔓延し受け入られるまでになったのか、それについて自分なりに考えてみようかと思います。

 

 

見出しにも挙げましたが、いきなり結論を言ってしまえば「楽だから」に他ならないんじゃないかと。

 

 

だって『空気』という目に見えないものの代表と言ってもいいぐらいな「曖昧な存在」を、『象徴』として崇めていればいいだけなんですから。

自分の感情をなにも言わずに周りが勝手に察して理解してくれる(…と思いこんでいるだけ)、これほど『楽』な事はありませんよね。

 なにもしなくていいのですから。

自分の心を削って、自分の事を相手に伝えなくていいし、相手へ伝える為に伝える言葉を色々と考えなくてもいい。

なにも言わずして伝わるその空間に、ただいればいいだけなのですから。

文字通り『空気』になればいいだけだもんね。

それで自分という存在を受け入れてくれた(…と思い込んでいるだけ)のならば、こんな『楽』な事はない。

そりゃ、みんな挙って「空気読みます」わ(笑)

その『空気』を作っているのが誰なのかを、敏感に読み取る能力さえ身に着ければ、自分はそれを阻害しないようにしているだけで楽に生きられるんですからね。

あとは、自分の周りに自分と合った『空気』を作ってくれる人達の居る空間に、入り込めればいいだけ。

 

でね、『楽』って本当にいい事なの?

 

「物事」って必ず一方だけではなく「対」となるモノがあります。

『楽』の「対」となるモノって、なんだと思いますか?

よく一般的に『苦』や『哀』が挙げられます。

 

 

『苦』から見た考察

「苦楽を共にする」という言葉があるように、『楽』と『苦』は「対」となっているイメージが湧きやすいかと思います。

即ち、『楽』も『苦』もどちらかが良いモノでどちらかが悪いモノというのではなく、どちらも同じモノだと考えられます。

もっと解りやすく言えば、ある一つの物事における分岐点に遭遇した際、一方が『楽』へと繋がる道、もう一方が『苦』へと繋がる道へと分かれています。

当然、自分が選んだ「道(=選択肢)」の『経験』しか出来ません。

それが『楽』だったか『苦』だったかの違いでしかないのですよ。

自分の捉え方一つでどちらにも変わるし、『身に付くモノ(≒経験)』も違ってきます。

考え方の違いや捉え方の違いで、どうにでも解釈できる典型ですね。

そうすると、『楽』だからとか『苦』だからっていうのは、あまり意味のないようなモノに感じませんか?

もっと言えば、『楽』や『苦』の本質はソコにはないと思いませんか?

そんな事に囚われているのは、人間として生きているうえでもったいないと、私は思うのです。

 

そこで、本題とのつながりに戻るのですが、『楽』と『苦』が「対」となっているのならば、例えば自分が『楽』をしているのならば誰かが『苦』をしていますよね?

どちらがいいか悪いかではなく、「対」となっている一方の事も考えられるようになれば、もっと『楽』や『苦』を通じて色々な事を知る事が出来ると思いませんか?

それって、とても素敵な事だと思うのです。

 

でも「知る」っていう行為は、決して『楽』な事ではないというのは、今まで一生懸命生きてきた人たちであるのならば理解されているという前提で話を進めさせていただきますね。

 

『楽』って文字通り「楽しい」に代表されるように「良いイメージ」で語られる事が多く、『苦』は逆に「苦しい」に代表されるように「悪いイメージ」で語られる事が多いかと思います。

先ほど申し上げたように、「対」となるという事は自分が『楽』をしている一方で、誰かが『苦』をしているのは想像できるかと思います。

しつこいですが、どちらが良い・正しいという話ではなく、自分と「対」となっている境遇のモノに対して想いを寄せられる事って、人間として素敵な事だと私は思うのです。

で、想いを寄せるってどうやっていたか、思い返してみて下さい。

『空気を読めよ』みたいに「黙って察しろよ」というような事とは最も無縁なところに、彼方の「想い」はありませんでしたか?

相手の事を考えて話し、自分の事を伝えて、それを互いに伝え合う事で、互いに共有しようとする事で、人の『想い』って繋がっていったのだと思うのです。

 

その『想い』を断つ最も代表的な行為が「遮断」です。

 

先に挙げた「無視」や「排除」という行為ですね。

相手が何を思いどういう意図でアクションを起こした事なのかを考えてみもせずに、一方的に自分から「遮断する事」こそが、人間として生きていて最も愚かしい行為だと思います。

 

何故、一方的に遮断するのか。

 

それは「『楽』じゃないから」だと、私は推察しています。※

※そういう思考が私には殆どないので理解し辛い故、このように「推察」といった表現をしております。

でも、そうして人間関係を互いに築いていこうとする行為を、自分の意にそぐわないからと言って、宛ら「面倒臭い」といわんばかりに『排除』しようとする人間って、底の浅さしか感じないですよね。何故なら、これほど相手に対して失礼な振る舞いってないじゃないですか。対象相手と人間関係を築いてくのが面倒臭いだなんて、さ。

「『理解』しようともせずに一方的に『排除』される事に対して、相手(=人間)は『苦』しんでいる」という事を、自分の意にそぐわないからと簡単に人を排除しようとする人は知って下さい。

自分の意見を押し通そうとするだけの人間は、ぶっちゃけてしまえば本当にどうでもいいのですが、それでも話だけは聞いて下さい。もしかしたら自分の意見を押し通したいのではなく、別の感情や目的があるかもしれません。ですが、それすらも『遮断』してしまったらそこでおしまいですよね。

 

私が『遮断』するのは最も愚かしい行為と断罪しているのは、そういう事でもあるのです。

 

繰り返しますが、『いじめ』という行為の発端は『排除』という行為から始まるのです。

 

『哀』から見た考察

『哀』、「哀しむ」という言葉から解るように、楽しい気持ちとは真逆の感情となります。対義語なのですから、当たり前ですね(笑)

「楽しい」という気持ちって、集団と共有しやすく、かつその場のテンションがあがる大きな要素となります。

 

「哀しむ」とほぼ同じ意味を持つ言葉として、読みも同じではありますが「悲しむ」という言葉があります。

どちらも文字通り「悲しい気持ちになる」とか「心が痛む」時に使われますが、「哀しむ」には「悲嘆する」や「悼む」へつながる意味もあるようです。

「嘆き」の感情も加わる…というイメージでいいのでしょうか。

 

「楽しい行為」とは裏腹となる「悲嘆する行為」って、なんでしょうね。

 

調べてみたら、ココに書くと長くなりそうなので割愛しますが、色々な感情が混ざり合っているようにも思いました。

良い悪いではなく、どちらも人間らしい感情だな、と。

楽しい出来事だけではなく、哀しい出来事も人間を豊かにする出来事なのだと。

 

よく「楽しい事だけをして生きていたい」と言っている人を見受けますが、それって「浅い人生を楽して生きていたい」という意味に置き換えられると思いませんか?

 

「哀しみからは目を背けていたい」という事ですよね。

 

それも『遮断』じゃないですか。

 

それって、楽しいですか?

 

「一つの事しか知らなくていい」と言っているのと、同義ですよ。

「一つの事に没頭する」とは全く似てすらもいない、異な事です。

折角人間という感情を持ちそれを表現する手段に長けた動物に生まれながら、「楽しい事しかしたくない」とか、哀しくありません?

しかも、それには「自分が」っていう前置詞が必ず付きますよね。

「楽しさ」や「哀しさ」を共有しようとする人間は、必ずその相手に対して『理解』しようと試みます。そして、決して自分の都合で相手を『遮断』したりしようとはしません

何故なら、相手を『理解』しようとする行為からは程遠い行為だからです。

 

自ずから目の前にある人間的な豊かさを捨てるような『遮断』という行為と、相手を理解する事を放棄する野蛮な『遮断』という行為どちらも同じだと思いませんか?

 

空気を読まなかったり読めなかったりする事で、それを理由に距離を置かれたり剰え交遊関係を絶たれたりするような事は、果たして人間として生きていて心豊かに生きていける事なのでしょうか?

自分が嫌いなモノだからと捨てる。捨てようとしているのは食べ物やおもちゃなんかではなく『人間』ですよ。

相手の事を理解しようともせず、話を聞こうともせず、話をしようともせずに交遊や関係を絶つという行為は、相手の人間性をも否定して捨てるという行為なのだと知って下さい。

『いじめ』となんら変わりのない同等の行為なのだと知って下さい。

 

『空気を読め』という行為も、なにもモノを言わずに周囲に同調を強要するという時点で、それらの行為と同等に野蛮な行為です。

 

 

 

こうした『空気を読め』という言動から起きた事に苦しんでいる人や哀しんでいる人が、この広い社会や身近な人間関係の中にも沢山いる事に、私はずっと心を痛めてきました。

 

とても黙っている事が出来なくなったので、こうしてうまく伝えられているかは分かりませんが、文章という形で書いてみた次第です。

些か感情的となってしまっている部分もありますので、それ故に伝わりづらい所もあるかと思います。

ですが、それも『人間』であるが故のスパイスみたいなものだとでも思っていただけましたら、これ幸いです(笑)

 

 

 

ここまでグッダグダな拙文を読んでいただきまして、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

なんか日記を書かないとこのブログを維持出来ないみたいなのがあったので、急遽こんな文を仕事休みの二日間の就寝前を利用して書き散らしただけだったりもします(wwwww

 

ゴメンナチャイ(てへっ☆)←